この中国路は我が国でも屈指の神楽の里である。
「芸北神楽」といえば高宮町の一大民俗芸能で町内六団体が共に広島県無形民俗文化財として指定を受け歴史的に継承を続けている。
この神楽の起源は明らかでなく昔から幾つかの説があるが、最も多くの賛同を得て支持されているのは、日本最古の歴史書、天武天皇和銅五年(708年)1289年前の「古事記」上巻「日本書紀」巻第一「古語拾遺」に記されている「天の岩戸」の神話に起源があるという説である。
広島県の北部に源をもつ中国太郎と呼ばれる江の川、その流域に島根県阿須那の里がある。この辺から江の川上流にかけて一つの神楽のグループがあります。この神楽は(1)能舞で筋が平易でありわかりやすい(2)詞章がまことに整っている(3)舞い方は原型を壊さないで写実的な動きを多く取り入れている。この神楽を土地の人達は「高田神楽」と呼んでいる。
 原型は「岩見八調子」神楽である。江戸時代、物語り・能などから劇的な岩戸神楽が神社を中心に波紋のように広がったと考えられる。出雲佐陀神能が岩見邑智郡に伝わり、「岩見神楽」が矢上から高田神楽へ(八調子でテンポが速く勇壮な舞い)と、山県神楽(六調子でテンポがゆるやかで静かで優雅な舞い)と伝えられて来たのである。
したがって、県北における神楽の歴史は平安末期(898年)から鎌倉時代(1333年)に出雲、厳島、速谷神社を中心に伝わって今日の神楽を創始したものと考えられる。
 このように神楽は民俗芸能の中でも最も古い歴史がある。遠く平安時代では宮中で舞われる「宮神楽」であった。その後、地方に広がり「里神楽」と呼ばれ、地域の風土・風習・生活形態などにより盛んとなって来た。この神楽を伝承しているのが私たちの神楽であり、羽佐竹神楽団である。
地域に残る古文書によると天昭一六年(1573年)霜月(11月)と有るから424年以上昔より忠実に引き継がれる。団員の中には四代目、三代目、二代目の団員が存在し、嘉永(1848年)、分久(1861年)、元治(1864年)、慶応(1865年)年代の団員の存在も明らかで、羽佐竹神楽の基礎を創ったのである。
 この様に最も古い伝統有る舞いが歴史的に継承され、忠実に伝承され、現在に及んでいることが確証できるのである。
 昭和四十七年(1972年)四月地域の全戸(130戸)を会員として羽佐竹神楽団後援会を創立し、昭和五十年四月規約制定を整え、保護・育成・継承への支援態勢を確立し現在まで支援活動を続けている。昭和五十四年(1979年)三月広島県無形民俗文化財の指定を受けたのである。
 神楽の上演には「胴」と「舞手」がある。「胴(どう)」とは演舞をする場合の囃子方で、楽器は大太鼓・小太鼓・手打鉦・横笛の四種類で四者の合奏で囃し立てる。大太鼓をとる人を「胴とり」「へい頭」という、囃子方のリーダーである。奏楽一体の一大絵巻を繰り広げるのである。
舞いの基本形式は、(1)五方の拝み(2)膝折り(3)角おがみ(4)鬼招き(5)立ちあい(6)慶び舞いで、神楽の奉納は「胴の口あけ」「神降ろし」(舞殿に神の降臨を仰ぐ、神楽のあらゆる作法を演舞する)「神迎え」「八幡」「岩戸」を五神祇(ごじんぎ)とし、この儀式舞いは神楽団としては一番大切で最も神聖視している舞いである。この演目の奉納で一般の神楽の演目に入るのである。演技のできる演目は新舞、古舞合わせて二十五番位は出演披露することが出来る。
「出歌」にも注目してほしい。
       八雲たつ 出雲八重垣妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を
       青草を結い束ねてぞみのかさを 作り初めなす 須佐之男神
       親と子の別れの花はいつや咲く 五月雨時の  溝の萩の花
今日流行の通俗的な観劇、鑑賞のショーとは異なって信仰、民族性などが伝承され、郷愁と感動が有る。
 舞う者と見る者が一体となって夜のふけるのも忘れ太鼓のリズム、舞いに酔いしれる光景はまさに大衆に溶け込んだ一大民俗芸能としての姿を見ることができる。
 400有余年の歴史と伝統の有るこの神楽の灯を消すまいと毎週研鑽を続けている。
晴れの舞台での素晴らしい舞いの技もさることながら、舞人としての精進、努力と青年舞人の純情、真剣な姿、根性、そして郷土芸能に対する情熱を感じ取ってほしい。
 尚、平成三年(1990年)四月羽佐竹神楽少年団を結成し、250万円の浄財により、子供神楽衣装を整え神楽保存のため後継者を育てる営みも続けている。
 この様に「郷土芸能」のもつ意義は誠に重要である。
それ故に広く大衆に理解されなければならない。


1997年 1月          
文責   浅原  晃  
(羽佐竹神楽団後援会長)